新・教育ジャーナル

教師や学校、最新の教育動向に関する記事です。

私立学校は格差の温床なのか?

日本は長らく、一億総中流社会と呼ばれ、諸外国と比較し格差の小さい社会を形成してきた。しかし、2000年代の構造改革以降、様々な規制緩和が進み、非正規雇用等が増大したことで、格差が拡大しているといわれている。

一方、イギリスでは、古くからの階級社会が根強く残っている。労働者階級に比べ、中上流階級出身の子女が、高等教育に占める割合が高かったり、社会的地位の高い職業についたりする傾向が顕著に観られる。とりわけ、この階級社会を固定化する役割を果たすのが私立学校の存在だと指摘されている。一般的に、金銭的負担が重い私立学校には上中流階級の子女が入学しやすい仕組みとなっており、そこでより良い教育を受けることが保証される。


実際、2013年の政府調査によると、私立学校出身者は全体の7%しかいないが、公立学校出身の人よりも30%以上社会的地位の高い職に就いていると報告されている。2004年の調査によると、4分の3の裁判官、3分の2の議員が私立学校の出身であることがわかった。全体の7%しか私立学校に通ってないことを考えると、この割合はとても高いものであることは明らかである。また、2013年の調査では、5つのエリート私立学校からオックスフォード大学とケンブリッジ大学(イギリスのトップ大学)にいく学生数は、2000の公立学校からその2つの大学に行く生徒数よりも多いということが明らかになった。


以上のようなデータから、私立学校出身者が、その後の進学や就職においてよりよい結果を出しており、私立学校で教育をうけることがその後の人生にとって大きな影響を与えていることがわかる。


もし、私立学校に通えるのが、中上流階級の子女に限定されるならば、私立学校は階級を固定化し、格差を拡大する装置となっているといえるかもしれない。その点において、日本における、高校無償化等の政策の意義があると考えるが、同時に公立学校の教育の質を高めることも、格差社会を是正するという観点からとても重要である。

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教職員採用情報から見える学校の特徴

 学校の特徴を知るために、HPを見たり、学校参観に行ったり、口コミで情報を集めたりすると思います。これらは、どのような学校なのかを知るための情報を得るうえでとても大事なことです。学校のHPを閲覧したとき、みなさんはどこをチェックしますか。通常は、教育方針やカリキュラム、進路実績等を中心に観るのではないかと思います。

 前の記事で、部活動の実績を前面に押し出している学校には注意が必要であることを書きましたが、今日はもう一点、注目してほしい点を書きます。それは、教職員採用情報です。受験生やその保護者にとっては、教職員採用情報は関係がないため、そこをチェックする人はなかなかいないかと思いますが、学校がどのような教師を求め、どのように採用しているのかを知ることは学校の質を考える上で貴重な資料となりえます。

 まず、教職員情報でチェックしてほしいのが、その募集要件です。一般的に、教員免許取得者(または取得見込み者)が必須要件で、その他は学校によって異なります。ある学校は、修士修了者に限定している場合もありますし、年齢制限を設けたり、キリスト教信者に限定したりしている学校もあります。一概に、どんな要件が良くて、どんな要件が悪いとは言えませんが、ここを見たときに、疑問を抱くような要件を課している学校は注意が必要かもしれません。


 次に、その待遇をチェックしてください。この際、給与待遇について記載がない学校には要注意です。教師といえども、社会的には一労働者であり、会社(学校)と労働契約を結ぶ以上はその待遇は極めて重要な要素となります。にもかかわらず、それを記していないのは、記すことができないほどの低い給与待遇なのか、もしくは、そのことの重要性を認識していない管理職や経営者によって運営されている学校であることを示唆しています。このように、教師の待遇をないがしろにする学校に、教育の質を期待するのは無理ですよね。教師を大切にしない学校が、生徒を大事にするはずがありません。

 

そして、採用募集時期に注目してみてください。特に、採用募集から採用時期が近い学校には注意が必要です。通常であれば、次年度の欠員状況を半年から1年前に、管理職が把握し、それに基づいて計画的に採用活動をしていくはずです。にもかかわらず、採用時期が直近に迫った採用募集をしている学校は、人事管理が適切にできていない学校か、突然退職者がでるような学校である可能性が高いです。もちろん、産休や病気、ケガ等が原因で、休職を余儀なくされた教員の補充も考えられますが、それらの理由ではなく、突如退職者がでるような学校には、教職員が働きにくいような要因が隠れている可能性があり、それは教育の質に関係してきます。また、急募で募った教員は、とりあえずの数合わせのために必要であり、その質をしっかりと採用過程において審議しているかは疑問が残ります。

以上のようなことから、教職員採用情報からもどのような学校なのかを推測できます。

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部活動写真をHPのメイン画面にしている学校には気をつけろ

 近年では、ほとんどの学校がHPを開設しています。そのコンテンツは、学校の教育方針を記したものから、カリキュラム、進路指導実績等さまざまです。これらの、HPから得ることのできる情報は、その学校を知る上でとても重要です。一般的に多くの学校が、各学校の長所をアピールし、たくさんの受験生を引き付けるために、工夫をしていますが、部活動の写真をメイン画面にしている学校には要注意です。


 部活動の実績は、学校にとって、その学校の名を宣伝し、価値を高めるために重要視される傾向にありますが、あくまで部活動は教育課程外の任意で行われるものです。つまり、学校の本業ではないのです。例えば、カレー屋さんのHPをみて、サラダが一面に宣伝されていたら何かおかしいですよね。カレー屋さんであれば、カレーを売りにしている訳ですから、カレーを大々的に宣伝するはずです。部活動を前面に押し出している学校は、学校にとっての本業である教科指導等では勝負できない、教育の質が低い学校である可能性が高く、学習者にとって望ましくない教育環境であることを示唆しているかもしれません。


 一方、カリキュラムの詳細やその意図、各教科目標等が具体的に記され、かつそれらが学習指導要領と密接に関係している場合には、その学校が生徒の学習的発達を第一に考える、質の高い教育を提供する学校の可能性が高いです。ぜひ、学校のHPを見比べてください。


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試験制度を利権化する奴らの正体

 前の記事(試験大好き教師には気をつけろ)で、試験制度がもたらす弊害をいくつか指摘しました。しかし、それでもなお試験が、学校教育を支配し続けているのはなぜでしょうか。試験がもつ利点である、採点の公平性や再現性、試験官の主観の排除、他者との比較が容易等といった純粋な理由以外にも、事情があるのです。
 まず、社会において中上流階級にいる人たちが、自らの階層を固定化したいという意図です。言い換えれば、階層の流動化を防ぎたいのです。試験の制度設計は、上流階級出身者によって行われている(試験制度の下で優秀な成績を出せる人は、高所得家庭出身者に多く、彼らが制度設計影響を及ぼすポジションについている)ため、同じ階級出身者にとって有利な能力を測れる制度設計になっています。例えば、某有名なお受験ママが、子どもを一流大学に合格させる秘訣として「子どもには一切家事をやらせない」といっていました。それは、家事で習得する力は、直接的に受験にとって必要ない力だからです。家事によって習得される力が、たとえ人々の「生きる力」(学校教育によって育む力)にとってとても重要な要素であっても、それらは試験科目から排除し、数学や国語等の力(正確に言うと、問題を解く力であって、国語や数学に関する、深い理解や新しい技能の習得そのものではない)に特化することで、それらだけをやらせられる家庭環境(比較的裕福な家庭)で学習する生徒に有利な試験制度を設計しているのです。このような観点から考えると、試験制度は上流階級出身者にとって、自らの利権を死守するために利用し続けたいものなのです。元来、試験制度は、産業革命以降のイギリスにおいて、力をつけた市民が階級の固定化に挑戦するためにできたもの(家柄や階級に関係なく、試験によって能力があればだれでも高等教育等を受けられるようにする)であるが、現在では、その試験制度によって階級の固定化が強まっていることは皮肉なことですね。
 次に、ビジネスの要素があります。試験制度のおかげで、さまざまな教育関連の産業が発達しました。学習塾や教育関連書籍の出版社等、試験制度なしでは成立しないような産業がたくさんあります。また、センター試験(大学入試共通テスト)のように、利権やビジネスチャンスが生まれるようなものも、試験制度を利用することで成立しています。以上のようなことを踏まえると、これらの利権にあやかりたい人々、組織が、試験制度を死守しようとしています。実際、今日の大学入試改革によって、学習者の不安を煽り、そこにつけこんだ、ビジネスや学習書等が多くみられます。また、ある教育関連企業は、文科省の事業に必ずといっていいほど関わり、この度の、英語の民間試験活用に関しても、しっかりと参入しています。教育関連企業として、学習者のためのふりをしながら、実は自らの利権のために、学習者を混乱させ、学習を阻害していることは、許しがたいことです。

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試験大好き教師には気をつけろ

 期末試験や入学試験、就職試験等は、学生にとって避けては通れないものですよね。多くの人にとって、それはストレスであると同時に、学習を行う上でのモチベーションにもなっているかもしれません。教師にとっても、試験は重要です。期末試験であれば、生徒の学習評価のために必要ですし、入学試験であれば、なるべく一人でも多くの生徒を希望する学校や仕事に就いてほしいと思うでしょう。このような試験に代表される、成績を決めたり、合格者を決めたりする評価のことを、総括的評価(Summative Assessment)と呼びますが、この種の評価を第一優先にして、生徒に学習指導を行っている教師には注意が必要です。
 試験の長所として、採点の公平性や再現性、試験官の主観の排除、他者との比較が容易等が挙げられ、効率的に選抜を行うのに適しているとして、19世紀の中ごろからイギリスを中心に大学入試等に活用され始め、そのシステムは世界中に拡大してきました。
しかし、その長所と同時に弊害も考慮する必要があることが、多くの教育評価の研究者が指摘しています(例えば、John White)。

 試験のマイナス要因として:その妥当性(Validity)が低いこと(生徒が、ある問題に正解したとしても、その生徒の学習理解が学習目標に達しているとは限らないこと)や:パフォーマンス志向(Performance Orientation)を強めること(他者に褒められることや、他人よりいい評価をもらうことが学習の目的化すること。※反対語は、学習志向(Learning Orientation)。パフォーマンス志向を持つ学習者は、学習への動機づけが弱く、学習意欲が低下しやすく、できる自分を保つために難しい問題にチャレンジしない等の問題点が研究で明らかになっている(Black&Wiliam))や:教師のストレスの増加(試験結果による、説明責任を求められる)や:授業の単調化(試験のための授業になり、一方的な知識の伝授や試験問題の演習が優先される。結果として、課題解決力や批評的思考力、主体性等の試験等では測ることが難しい力が軽視される)などが挙げられている。
 以上のような、試験志向がもたらす弊害を認識せずに、試験のために授業を行い、それに陶酔している教師は、教育に対する理解が欠如した失格教師かもしれません。

 

※ちなみに、混同しやすい概念としてテスト(Test)がありますが、試験とテストは分けて考えるべき概念です。試験(Examination)は、セレクション等のために計画的かつ画一的(同じ条件、時間等)に実施される必要がありますが、テストは、学習状況等を把握するために授業中などに日常的に行われているものも含みます。そのため、テストが必ずしも、試験のように計画的かつ画一的に実施される必要はありません。

 

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塾化した学校、塾講師化した教師には気をつけろ

     教師と塾講師は、共に授業を行い生徒の学力を高めるという意味では似た役割をもつ職業かもしれませんね。しかし、何のために学習指導をしているのかという目的は大きく異なります。一般的に塾講師は、生徒が目的としている試験等に合格するため、もしくはそれに必要な得点をとるために学習指導を行っています。よって、試験問題に効率的かつ正確に回答できるように、必要最小限の知識を伝授し、練習問題を繰り返し、試験で得点に結びつくことに特化して学習指導を行います。
     一方、学校の教師は、本来は、試験合格のために学習指導をしていません。実際、学習指導要領のどこにも、試験を合格させることや、テストで1点でも多く点数をとらせることを明記した箇所はありません。学校の教師は、生徒の「生きる力」を育むために、知識理解、思考力判断力表現力、そして学びに向かう力・人間性等の資質能力をバランスよく育むことが求められています。そのため、社会構成主義によって導き出される学習理論が学校の授業の場では重視され、生徒自身が考える時間や活動する時間、生徒同士で議論する時間等が用意されます。
    しかし、学校の教師の中には、塾講師のごとく、受験に必要な知識のみを一方的に教えることに快感を覚え、受験指導を請け負うことが第一使命と考えている人がいます。また、学校自身が、それを教師に求め、難関大学への合格者数を教育の価値と考えている学校も少なからずあります。
     以上のことは、決して生徒が難関大学に進学することや塾講師がそのための指導をおこなうことを否定しているのではなく、学校教育の役割を見失った教師や学校を批評するものです。学校教育とは何かを誤解した教師や学校の下で学ぶことのリスクを認識していただければと思います。ちなみに、2014年のイギリスでの調査によると、Aレベル(イギリスで高校三年生が受けるテストで最高のグレード)を獲得した学生が、大学入学の3か月後には、同じテストで4割しか正解できないことが明らかになっています。つまり、試験のための学習が表層的で短期的なものであり、現行の学習指導揚力が求める「深い学び」と言えるかどうかには甚だ疑問があります。
  なお、もし、学校教育の本来の役割をまっとうした学校で学んだ生徒が育んだ力が、大学入試や就職試験等で、価値のない力とされるならば、その試験制度そのものに大きな欠陥があるか、学校教育の役割そのものが間違っているのかどちらかになります。そこの、矛盾を正さない限りは、塾化した学校、塾講師化した教師問題は解決されません。

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前日にテストを作る教師には気をつけろ

     みなさんは、教師がどのようにテスト作りをしているかご存知ですか?人それぞれのやり方があるかと思いますが、中には、テスト当日の朝に必死に作っている教師もいます。しかし、ギリギリになって慌ててテストを作っている教師は失格教師かもしれません。それは、決してタイムマネージメントに問題があるといった、表面的な問題ではなく、テストの質、そして授業の質に影響を及ぼすためです。

    Halenの研究によると、質の高いテストを作成する教師は、授業の質も高くなることが明らかにされています。テストで生徒の学力を測ることの長所はその公正性や再現性が保証されやすいことですが、一方でその妥当性(テストで測れる力と実際に意図している力との関連性)についてはその脆弱性が指摘されています。しかし、テストを計画的につくる教師は、それぞれの教科、内容を通して生徒が達成すべき目標に基づいて、それに深く関連した問題を作成するため、その妥当性が高まり質のよいテストとなります。また、そこで深まった学習目標に対する理解は、通常の授業にも適用され、ゴールが明確になり、それに向かうための学習活動が用意された、効果的かつ効率的な学習者を可能にする授業がなされることになります。このように、学習目標についての理解が深い教師は、学習者の学習状況によって指導を柔軟に変化することができるということも研究で示されており、より学習者のニーズを満たす質の高い指導が可能になります。

    以上のようなことを踏まえると、テストをギリギリに作っている教師は、そのテストの妥当性等を考慮せず、また、学習目標に対する理解も不十分である可能性が高く、テストの質や授業の質に疑問が生じる失格教師となり得るのです。

 

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